昭和55年4月18日 朝の御理解 中村良一
御理解 第22節
「天地金乃神といえば、天地一目に見ておるぞ。神は平等におかげを授けるが、受け物が悪ければおかげが漏るぞ。神の徳を十分に受けようと思えば、ままよという心を出さねばおかげは受けられぬ。ままよとは死んでもままよのことぞ。」
これだけはと、こう、心に定めた信心は、それを貫くという事が信心です。貫きにくいこともあります。えー、きつい、苦しい時もあります。例えば、皆さんもお気付きでしょうけれども、ここ、おー、私が風邪を引いて、こんな状態での朝の御祈念が、もう二十分の、今日あたりは、やがて三十分も、何時もよりも、だから、三時半から祈らせて貰うて、ですから、ちょうど、二時間近くをご祈念するわけです。咳が出ますでしょう。御祈念半ばでしょう。だから、また元に戻るわけです。繰り返し繰り返しこう、それでも、これだけのことは神様に願っとかなければならない。これだけの事は、もう、今日は神様に御無礼して、何時も一時間づつの御祈念ですけども、今日は十分間か、二十分間で御無礼しますというような事ではない。ね。やはり、それを、やっぱり、そらもう本当に苦しいことでしたからね、朝の御祈念は。けれども、やはり、自分の心に考えておる、誓っておる、思っておるその事を、一通り神様にお取次ぎを、お願いをさせてもらわなければならない。まぁ、これなんかは、今言うように、これと、自分の心に定めた事を信心は貫くことです。きつい時ですから、一時間なら三十分にと、普通なら言うところでしょうけれども、私の場合は、それが出来にくくなってくれば来るほど、時間が長くなる。それでもやっぱり、今日まで貫かせて頂いた。ね。だから、私は、人がここで助かると思うです。ね。まぁ、助かると申しましても、結局は、皆さんの受け心なんですけれども、ね。受け物が悪ければ、おかげが漏るとこう仰る。
昨日は、えー、研修を終わったから、ちょうど、前日の御大祭を、色んな都合でお参りができなかったというような人達が、何人か参っておりましたから、そのかたたちも、一緒にあの、今度、全部ビデオに納めてございますから、ビデオで見せてもらいました。もう、カラーで、実に見事にもう、もう一遍、あの大祭を、初めから最後まで頂きました。頂いてから、もう改めて、あの、思わせていただいたことは、んー、今度は特にそうでした。若先生が祭主を仕える、光昭は、その裏方、幹三郎は、私付きで、ずっと御用してくれる。栄四郎は、マルショウ関係で、まぁいうならば、そして最後のお説教を、私が承る。もう、本当に、大坪一家の者が、その芯になって、このお祭りが進められておるのに、改めて気が付かせていただいた。そして、えー、なかでの吉備舞は、直子でしたからね、もう本当に、親子、兄弟が、それこそ一糸乱れぬあり方で、御大祭が進められております。もう本当に、初めてのことでしたから、そこに、色んな手違いやらもありはせんかと思うておりましたけれども、ビデオで見せてもらっても、もう、その見事さに、もう本当に驚き、改めてお礼を申させて頂いた事でございました。皆さんも、もう一遍、あの、拝まれるといいですね。全部撮ってありますから、もう、改めて、御大祭を、その日の御大祭を再現してあるわけです。私共は、一番正面で拝んでおったけれども、また昨日、テレビを見て、改めて、もう若先生のあの、祝詞の素晴らしいこと、素晴らしいこと、もう、本当に、その日、かみさま、あの通りでございます。その通りでございますと、こう言うて後ろから祈念させていただきましたが、昨日も、本当に改めてあの、祝詞を聞かせていただきながら、合楽の信奉者が、あの祝詞を全部覚えておいて、あの通りの事が、合楽では進められておるのですから。あれに、いわば、いうなら便乗していかなければならない。あの信心を、いよいよ身に付けていかなければならない。ね。というて、なかで、ビリグイのお話をさせて頂いておりますが、もう、確かに、親先生が言うとおり、または、言うておった以上の事を、南米の地で、今、ゴヒレイを現しておるというところ。ね。私のお話も、もう、こんな状態ですから、もう、そこつまみ、ここつまみしてお話したように思うとったんですけれども、昨日、頂いてみてもう、本当にもう、改めて素晴らしいなぁと思い。これは結局、大坪総一郎が話しておるとじゃないなぁと。もう、言うなら、もう、チャット筋が通って、そこつまみ、ここつまみのような話であって、そうではない、締めくくってあるのに、また一つの驚きでした。
なかに私が、こういう話を致しておりますね。三井教会の初代、荒巻源次郎先生に助けられ、二代、荒巻久人先生に育てられというところがありますよ。ね。そして、まぁ、それに付け加えるなら、今の三代、三井教会長先生の、日々のお取次ぎを頂いて、今日の合楽があるのです。ね。もちっと、これを大きく言うならば、教主金光様の、大きな祈りを受けての事です。ね。そして、その手続き手続きの教会長先生が祈っておられる、手続き関係の事が祈っておられるでありましょうから、中には、甘木、福岡、久留米の祈りも、そこに入っておるわけでございます。これは、私が知っておるだけでも、三井教会の初代の時分にも、ゴヒレイは大したもんでした。それこそ、無い命を助けられ、開けない道が開ける。もう本当に、沢山な人が助かりましたけれどもね。ね。なら、ね。初代に助けられ、ね。本当に、師匠から習ったことを覚えておって、これほどのおかげを頂きましたと言えば、師匠も喜ぶ、ね。いわゆる、神も喜び、金光大神も喜び、氏子も喜びじゃといったような喜びに、信心が続いていない、貫かれていないという事は、もう、こんな、神様としても、ご残念なことはなかろうと思う。善導寺教会で私が知ったおるだけでも、無い命を頂いたという事は、沢山あります。けれども、今日、誰も繋がってない。何人かは、まぁ、その時分からの信心といや、岸先生あたり、久保山光男さんあたりぐらいな事でしょう。どんなに、おかげを頂いておっても、それがね。言うなら、神も喜び、金光大神も喜び、自分自身も喜びというような喜びを頂いて、初めて、御道の信心が信心たるところになるのです。ね。初代に、無い命を何回も、初代のお取次ぎによって助かりました。ね。いうならば、二代からは、それこそ、厳しゅう、これが親じゃろかと、私だん思うくらいに、厳しゅう育てられました。ね。だからもう、そげなこつ言うたり、そげなこつしたりしたと言うて、その時をいてなかったら、いうならば、育てられたという事にはなりません。ね。そして、ほんなら、現三代教会長先生が、それこそ、毎日、日参をいたしますから、毎日、厚い祈り、お取次ぎをしてくださってあるのです。だから、どういう、ほんなら、大きな教主金光様の祈りを受けたところでです。どういう事になりますかね、今日の御理解は。受け物が悪ければ、おかげは漏るぞと仰る。ね。どんなにお取次ぎを頂き、どんなに、いうならば、助けられたの、育てられたのと言うても、ね。そのお取次ぎの働きを、受け止めなかったら、今日の合楽はありません。それこそ、神も喜び、金光大神も喜び、自らも喜びという事になってきません。ね。して見ると受けものだと。結局、おかげは和賀心であり、どういう素晴らしいお取次ぎを頂いて、そこのお取次ぎの働きがあっておったにしても、ね。受け物が悪ければ、おかげは漏ってしまっている事になる。ね。御大祭の模様を、もう一遍見るじゃなくて、あの御大祭の精神が、もう始めから、最後まで、ね。その、お心が、あそこに、あのように現れておる。ほらもう、写し方も素晴らしいでしょうけれども、本当に素晴らしいです。ね。是非、今一遍、二遍でも一つ見て、もう一遍、あの、神様のお心を分からせてもらわなきゃならない。そして、いよいよ、いわば、受け心を作っていかなければならない。ね。同時に、ままよとは、死んでもままよの事ぞと言うようなご信心というものは、あれもこれもと言うわけにはいきませんけれども、神様に向けて、心を絞らせてもらい、心を向けさせて頂いておること。この事だけはという場合は、それこそ、死んでもままよというような心で、神様には向かわねばならないことを、私は、この一月間のです、朝の御祈念の上に笑われてくる。それで皆さんが感じてくださる。もう、そうにゃ、苦しいごたるふう、そうにゃ、きつうありなさるごたるふう。それでもやはり、願わねばならんことだけは願い、お礼を申し上げなければならん事だけは、お礼を申し上げる。お詫びをせなければならないとこだけは、お詫びをしぬかせて頂いておる。普通一時間かかるところは、二時間かかってでも、御神前に、それこそ、へばりつくようにして、御祈念をさせて頂いておる。ね。これは、私の信心なんだと。ね。ここには、ままよという心がなければ出来るこっじゃない。ね。信心には、そういうものが要る。同時に、どういう、ほんなら、厚い大きな祈りを頂いておると言うても、それを、ほんなら、受けるのは、銘々の心だという事を、改めて一つ思うて頂きたいですね。どうぞ。